霊滓鬼

供の花

深い山間の細い道を黒い軽自動車が走っていく。
秋とは名ばかりの暑い日々だが、畦には彼岸花の赤が鮮やかに際立っていた。
ラジオから流れる天気予報が台風の接近を知らせた。直撃は免れるが大雨への注意が必要だという。
佐和は助手席から空を見上げた。
まだ荒れる気配はないが、雲の層が厚く重くなっている。
「疲れた?もうすぐ着くからね。
ふふ、すっごい田舎でびっくりしたろ?」
運転中の義徳が前を見たまま笑った。
「全然だいじょうぶ。それにこういうところ大好きよ」
佐和はその横顔に微笑んだ。
でも、気力が持つかな――
確かに身体の疲れはそれほどでもない。
だが不安感がつきまとい、数日前からずっと心がざわついている。
それを悟られないよう佐和は再び窓外に目を向けた。

義徳と交際を始めたのは美容師の先輩として指導を受け持ったことがきっかけだった。
七つ年上の佐和はこの恋愛はすぐ破綻すると予想していた。義徳は田舎から出て来た心細さをただ埋めているだけなのだと。
幼い頃に両親を亡くしたお祖母ちゃん子だから、わたしを母親か姉のように感じているのだ。
きっと華やかな街に慣れ、若い女子に囲まれれば、やがて――
だが、いつまでたっても義徳から別れを切り出されることはなく、もう五年が経つ。
ようやくこの幸せを噛みしめてもいいのだと思うようになった頃、幼なじみだという少女が義徳を慕って店を訪ねてきた。数か月前のことだ。
香子という少女は田舎から遊びに来たのではなく家出していた。まだ高校も卒業していないらしい。
義徳は祖母にすぐ連絡を取り、知らせを受けた彼女の両親が慌てて迎えに来た。
生真面目そうな両親は義徳を垢抜けたと褒めちぎり迷惑を詫びた後、反抗する娘を無理やり引っ張って帰った。
佐和たちの仲を知る菜摘が、
「強敵あらわる!佐和、しっかり義くんつかんどかないと盗られるわよ。あの子地味だけど、ちょっと磨けばすごい美人になるわ」
応援してくれているようで、なぜか嬉しそうな同僚に辟易しながら一応「大丈夫よ」と微笑んだ。
だが香子は何度も家出を繰り返し、そのたびに両親、もしくはどちらか一方が迎えに来た。
幸せを味わい始めていた分、佐和の落胆は大きかった。
わたしよりきっと香子のほうがお似合いよね。
義徳が彼女に惹かれていくのなら潔く身を引くつもりの佐和だったが、彼は香子を面倒な幼なじみとしか思っていなかった。
そのことが佐和には嬉しかった。あまりに嬉しくて自分が少女に嫉妬していたことを今更ながら気付いた。
義徳は香子が来る度に彼女の行動を謝り、自分には無関係だと言い訳した。
佐和が何度うなずいても謝罪と弁解をやめない。
結果、愛の証にとプロポーズされた。
それは菜摘が面白がって、香子が来る度に佐和がかんかんに怒っていると義徳に嘘をついていたのだ。
婚約の報告に「わたしのおかげだからね」と笑った。
佐和は改めて幸せを噛みしめた。
だがその後も香子の家出は続いた。
必ず店に立ち寄り、客ならば叱られないと考えたのか義徳を指名し、終わったら連絡されないうちに出て行く。
義徳は仕方なく接客しながら会話の中にさりげなく恋人の存在をアピールした。
その度に佐和の両頬は緩み、鏡越しに香子から挑戦的な視線を送られた。
義徳が研修でいない時は菜摘を指名する。先日は義徳なら決して許さない真っ赤で髪を染めた。
佐和にとやかく言う権利はないが、まだ高校生なのよと菜摘を咎めると、
「わたしがお勧めしたんじゃないし。客が赤に染めてって頼むんだから仕方ないでしょ」
と唇を尖らせた。
義徳に叱られると思ったのか、その日から香子は来店しない。
一安心する恋人とは反対になぜか佐和の心は晴れなかった。

車窓を流れる山の稜線を見つめながら左手首に巻く数珠を撫でた。それは祖母からもらった黒水晶のお守りで佐和は肌身離さず着けている。
「なんか心配事?」
「えっ」
「浮かない顔してるしさ、心配事あるといつもそれに触るだろ。
もしうちのことなら、ばあちゃんはそんな気難しい人じゃないから心配しなくていいよ」
微笑んで佐和はうなずいた。
きょう初めて義徳の祖母に会うのも気がかりの一つではある。
大切な孫を奪う年上の女をどう思っているのだろう。
緊張して昨夜はほとんど眠っていない。
眠気もあったが、カーブの多い山道に入った途端、目が冴えてしまった。
整備されているが片方は山の斜面で、もう一方のガードレールの下は険しい崖だ。
義徳は安全運転だが、他の車に巻き込まれて事故が起きる可能性もある。
カーブの向こうから対向車線ぎりぎりでダンプカーが現れた。
佐和の悲鳴に、「ここはこんなもんだよ」と義徳は笑う。
「笑いごとじゃないわよぉ」
佐和は涙目になり、姑のことは会ってから対処しようと決めた。
カーブの上り下りを繰り返し、雑木林に囲まれたトンネルのような峠道を抜ける。
はるか右下に集落が見え始めた。
「あそこだよ。あとはもう下るだけだ」
「そう」
ほっとしながら視線を前に戻す。
ガードレールの下に花が供えられているのが見えた。
曇空に映えるほどそこだけ白いのは防護柵が新しくなっているからだ。
ほらね。笑いごとじゃない。こんなところから落ちたらひとたまりもないでしょ。
佐和は心の中でつぶやいた。
朽ちかけた供花の前を通り過ぎる。
佐和はすっと心を無にした。
気にかけていることを悟られてはいけない。同情心など以ての外だ。
道端の死骸や無縁仏など供養されないものに憐れみをかけてはいけない――幼い頃から祖母にそう教えられた。
「かわいそう思たらあかん。憑いて来て災いを成す。
そやかい知らんふりや。
けどな、知らんふりせなあかんって、必死に考えてもあかんのやで」
それは今のような供花に対してもだ。その場で死人が出たために供えられたものだから。
ちゃんと供養されればいいが、自分の死が理解できず地縛霊となる者もいる。
だが。それより厄介なのはごくまれに未練や恨み、執着などが『かす』だけになって留まっているものだ。
それを霊滓鬼という。
祖母は生まれ育った土地の呼び名で「でーさい」と呼んでいた。
こういう場所にはでーさいがいるかもしれない。
軽はずみに思いを寄せればこちらに気づき、引き寄せてしまうかもしれない。
だから、心を無にする。
佐和は山の斜面に揺れる草花を眺めた。
「ここは危ない場所なんだよなあ」
ふいに義徳が大きな溜息をついて「交通の便が悪いからさ、よぼよぼになってもお年寄りが免許の返納しないんだよ。この村はそんな老人ばかりだ」
止める間もなかった。
「今の花見たろ。あそこで誰か事故ったんだよ。かわいそうに、じいさんかばあさんか――まだまだ生きたかっただろうに」
「そんな話、やめて」
「あ、ごめん、ごめん。
大丈夫だよ、怖がらなくても。ぼくは安全運転だから」
そう言うと、義徳はカーステレオのボタンを押した。軽快な曲が流れ、それに合わせてハミングする。
ちがう。そういう意味じゃない。
佐和はサイドミラーを見た。
カマドウマのような四肢を跳躍させて、白い何かが追いかけてきていた。
でーさい――
白髪を振り乱し、死人に掛ける白い布を顔に張り付かせている。
初めて見たが祖母の教えてくれた姿形そのままだ。
義徳には見えておらず、機嫌よくリズムを取ったままだ。だが、祖母の血を継ぐ佐和にははっきりと見えていた。
でーさいがぐんぐん追いついてくる。
佐和はそっと数珠を外した。
かちゃりと石のぶつかる音がしたが、義徳は音楽に夢中で気にも留めていない。
窓ガラスを少し下ろして素早く数珠を放した。
白布の顔にぎゅっと皺が寄る。
黒水晶が空中でぱんっと弾け、すべての石がでーさいの身体を撃ち抜いた。
地面に崩れ落ちたのを確認して窓を閉める。
「なに?どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
そう言いながら佐和はサイドミラーをもう一度確認した。
ついて来るものはもう何もいなかった。