ろくでなしでも明るく生きていける社会

この国の不寛容の果てにー相模原事件と私たちの時代(2)熊谷晋一郎×雨宮処凛「生産性」よりも「必要性」を堂々と語ろう
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大月書店
2019/08/07 17:00

社会の中の分配の原則を考えた場合、二種類の方向があって、たくさん生産した人に多く分配するのを「貢献原則」、より必要性を持った人に多く分配するのを「必要原則」として、その二つの原則のミックスが国の経済のありかたを決めると考えることができます。貢献原則だけで社会を構成しようとすれば、優生思想に限りなく近づいていきます。私は、先ほど言ったように生産性よりも必要性に優位があると思っているので、必要原則の価値をもっと言っていく必要があると思っています。

これはその通りだね。

ただ、必要原則がなりたつのは、社会がある程度余裕がないとだめだろうね。

例えばの話、貧困な国の貧困な村で障がい者がいたとして、「あたしには介護が必要よ」といったところで、「あんたが必要なのはわかるが、こっちは自分が生きていくための仕事で手一杯。アンタの必要性より、こっちの必要性が大事」と言い返されるのがオチ。

でも、ある程度、豊かな社会になったら、働いて、生産しなければ、なにかしてもらえる価値はないんだ、という価値観からは脱却しないといけない。

自分たちも同じように、働けなくなり、生産できなくなることがあるし、一部の人だけが豊かで、働けずになんの生産もしない人は見殺しにしている社会こそ、貧相で、惨めな社会であり、そんな社会をわれわれは選択すべきではない。

障がい者や老人だけではない。落語の与太郎のような阿呆の面倒をみる長屋界隈のほうが、彼を見捨てたり、唾棄したりする社会より魅力的な地域社会であろう。

56歳 ひきこもり衰弱死
2019年8月7日

父親には、その姿はまるで「働かざる者、食うべからず」を体現していているように映っていたようです。
「最近は伸一、一緒に食事をしたことがない。やはり働きのないことが気になっているのか」
・・・・
(弟の)二郎さんは、深い後悔の念に駆られています。

「世間様から褒められるということもなく、家庭を築くということもなく、あまり生産性という面では社会に寄与しなかった人ですけど、弟の身からすれば、それで生きる価値がなかったとは思いたくはないので。どういう形であれ命は長らえてほしかった気持ちはありますね」

周りが、助けを求めたほうがいい、助けを求めていいんだよ、と言っても、誰の役にもたたず、働かざるものとしての負い目が負担になりすぎた。

男はつらいよ、のなかで、売れない歌手のリリーと同じくろくでなしの寅さんの会話、

「あたし達みたいな生活ってさ、普通の人達とは違うんだよね。それもいい方に違うんじゃなくて、 何て言うのかなぁ、あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ、アブクみたいなもんだね」

「うん、アブクだよ。それも上等なアブクじゃねぇや。風呂の中でこいた屁じゃねぇけども、 背中の方に回ってパチンだ」

孤独で社会にとってたいして役にたたない二人がその寂しさとつらさを共有する束の間。

この後、二人に愛が生まれ、互いが互いを必要とする関係が生まれそうになり、物語はパッと明るくなるが、しかし、結局、二人は結ばれない。

道という映画のなかの主人公のジェルソミーナと綱渡り芸人の会話

La Strada (The Road) (1954) Movie Script
I'm of no use to anybody,
and I'm sick of living.

・・・・・

Why was I born?
・・・・

You may not believe it,
but everything
in this world has a purpose.
Even this pebble.
Which one?
This one. Any one.
But even this one has a purpose.
- What's its purpose?
- Its purpose is -
How should I know?
If I knew, I'd be -
- Who?
- The Almighty, who knows everything.
・・・
No, I don't know
what this pebble's purpose is.
But it must have one,
because if this pebble has no purpose,
then everything is pointless.

「あたしは誰の役にもたってないの。もう生きるのはうんざり」・・・・「なんで生まれてきたのかしら」・・・・「信じられないかもしれないが、この世のすべてのものには目的があるんだ。この小石だって」「どれ?」「これさ、どれでもさ、これだって目的があるのさ」「じゃあ、その目的はなに?」「知るわけないさ、知ってたら、おいら全知全能の神様ってことになるだろう!。」・・・「この小石の目的は知らないけど、何かあるはずさ。だって、もしこの小石に目的がなければ、すべてのものに意味がない、ということなるじゃん」

しかし、現実には、その小石は誰の、あるいは、何の役にもたたず、神に与えられた何の目的もないだろう。あってもなくてもいいようなもの。

神も社会も、家族も、自分の価値を認めてくれなかったら・・・・

究極的には自分の価値は自分で肯定するしかない。

最果ての地に追放されて孤独に生きるにしても生きていく価値があるんだ、と。ただ、それは、風に吹かれて最果ての地に咲く雑草だって、やっていることではあるし、世の中には隠者としての生活を楽しんでいる人たちもいる。。

神や社会や家族に認められる価値がなければ生きられないのは、結局、他者依存症的で、その意味で自己肯定できる人のほうが強い。

いや、神様がいるとすれば、そうした何の役にたたない創造物も微笑んでみておられるに違いない。